シェリー・タークル , 日暮 雅通

発売日 1998/12
売り上げランキング 174,171
おすすめ平均

学者の研究としての労作Amazonで詳しく見る

人々はコンピュータをどのように捉えてきたのか、どのような影響がフィードバックされてきたのか。そしてオンライン・コミュニティーに生きる人々の心はどのように変わりつつあるのか、ということについての論考である。
著者の立場は「マシンが何をするかよりも、人々がマシンをどう思うかのほうが重要」というものである。つまりマシンが実際にどう動作し、アルゴリズムがどう動いているかということよりも、マシンの「操作」そのものを我々がどう感じ取り、イメージし、認識するかの方が大事である、というものだ。
原著が出たのが1995年。訳出があまりに遅すぎた。当時は先鋭的で優れた言説だったのかもしれないが、今となっては過去の記録を読んでいるようだ。
オンライン・コミュニティーや人工生命の出現などに伴って、様々な境界が揺らいでいる。例えば、自分とは何だろうか? オンラインにいるほうが「生き生きしている」と感じる人がいる。彼・彼女にとっては、接続された状態のほうが本来の自己に近いのではないか? たとえ、オンラインでは現実世界とはまるで違う性格・性別を持っていたとしても、だ。では一体自己とは何だ? いま我々はこのような形而上の疑問に、真正面からぶつかっている。これが著者の主張である。
確かに、このような悩みにぶつかっている人もいる。心理学者には面白いテーマだろう。だが、一般のネットワーカーは、そんなことはほとんど気にしていない。もっと気軽にネットで遊んでいる。「現実」と「ヴァーチャル・コミュニティー」といった形での分離分割は、そこには見られない。
我々はもともと、ペルソナを使いわけていたのだ。ネットの出現は、その場所が単に一つ増えたに過ぎなかった。それがこの数年間で証明されてしまったように思える。著者は「多重でありながら一貫性をもったアイデンティティ」を実証したのがホームページであるという。確かにそのとおり、だが現実を振り返ってみたとき、こういう表現はオーバーで滑稽に見える。
アイデンティティやパーソナリティというものは、もともと非常に動的で多面的で、流動的でありながら強靱なものなのだ。如何にコンピュータや「ヴァーチャル」なものに違和感や恐怖を覚える人がいようと、ほとんどの人は、そんなものは簡単に乗り越えてしまうのである。人のアイデンティティはタフだ。
だが、今だからこそ、そのあやふやな境界を見つめられるのかもしれない。オンラインとオフラインはさらに溶け合っていく。過去や経緯を辿ることはますます難しくなっていく。だから、ときどき過去を振り返ってみるのも悪くない。コンピュータは今後も喚起的であり続ける。
(初出:「DOS/V マガジン」)














宗教的な小説












